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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [3]




「あのっ!」
 慌てて立ち上がろうとするが、冷えた身体がいう事を聞かずにヨロける。まるで長時間の正座で痺れてしまったかのような足をフラつかせ、店の壁に手をつく。その姿に、相手は鼻で笑った。
「根性だけで、体力がついてきてないみたいだけど」
「そ、そんな事ありません」
「そう?」
 相手は品定めでもするかのように、ようやく立ち上がった美鶴を上から下まで眺めまわし、やがて顎をあげた。
「入りなさいよ」
「え?」
 ポカンとする美鶴に、相手は顎で扉を示す。
「店に入りたいんでしょう? グズグズしてると閉めちゃうわよ」
 言いながら扉に手を掛ける。その仕草に、美鶴は慌てて両手を伸ばした。そうして、無我夢中で下り階段へと飛び込んだ。





「そろそろアルコールにする?」
 耳元で囁かれ、美鶴はブンブンと首を振る。その姿に、隣の男性は興醒めしたように睨みつけ、席を立っていった。入れ替わるようにユンミが座る。
「あんまり断り続けると、嫌われるわよ」
「別に好かれたいとかって思ってませんから」
 ぶっきらぼうに答え、ウーロン茶を飲み干す。
 おかわりを注文しながら、視線は必死に霞流を追う。
「ウーロン茶ばっかりで飽きない? 少し変えたら? オレンジジュースとかもあるわよ」
「知らないうちにお酒とか睡眠薬を混ぜ込まれるかもしれないから味の濃い飲み物は警戒しろって言ったの、ユンミさんですよ」
 ユンミは上目遣いで肩を竦める。
「ウーロン茶だって危険に変わりは無いと思うけど」
「何か言いました?」
「いぃえ、別に」
 必死の形相で霞流を追い続ける美鶴に、ユンミは呆れ顔。
 慣れとは怖いものだ。入店した時には鼓膜が破れるかと思った轟音にも、目がイカれるかと思った照明効果にも、さっぱりわからなかった飲み物の注文の仕方にも、すっかり適応してしまっている。
「頑張るわね」
「それが目的ですからね」
 呆れたような声にも素っ気無く答え、美鶴は霞流の姿を追う。光と闇の中で身体を揺らしながら、グラスを片手に気怠(けだる)く笑う表情は、やはり見ていて気持ちの良いものではない。霞流はユンミ以外とも身を近付け合ったり抱き合ったりする。今も、こちらになどは見向きもせずに目の前の人物と視線を絡ませ、時折顔を近づける。
 思わず、視線を背けてしまう。
「あんな程度で打ちのめされているようじゃ、諦めるのね」
「ユンミさんは、平気なんですか?」
「アタシ?」
「ユンミさんだって、霞流さんの事が」
 初めてこの店に連れてこられた時、美鶴の目の前で濃密に霞流の唇を奪った人間。そんな人間と当たり前のように会話をしている自分は、もはや頭のどこかが麻痺でもしてしまっているのだろうか?
「アタシは気にしてないワ」
 煙草に火をつけながら、さも当たり前のように言う。
「アタシと一緒に居る時さえこっちを見ていてくれればいいの。アタシの知らない時間の慎ちゃんは、アタシには関係ないモノ。慎ちゃんの知らない時のアタシが慎ちゃんのモノではないのと同じ」
 ユンミは霞流を慎ちゃんと呼ぶ。
「幸せでいたければ、自分の知らない相手なんて、知ろうとしない事よ。アタシはそう思うわね。それなのに」
 フーッと煙を吐きかける。
「どうして女っていうのはこうもガメついのかしら?」
「ガメつい?」
「もっと知りたい。もっと好きな人の事を知りたい。好きな人のすべてを知りたい。知ってすべてを自分のモノにしたいっ!」
 両手を広げ、まるで芝居でも演じるかのような仕草を見せる。
「これをガメついと言わずに何と言うの? 強欲とでも言うのかしら?」
 煙草を咥え、大きく吸い込み、そして吐く。ウーロン茶が運ばれてくる。
「相手が見せてくれる以上の相手を、知ろうとすべきじゃないと思うわ」
「無理ですよ」
 ストローを咥えながら答える。
「もう、見てしまったんですから」
 唇を噛み締めながら霞流の姿を追う。
「ユンミさん、どうして私を店に入れてくれたんですか?」
 ユンミはチラリと視線を送る。
気紛(きまぐ)れよ」
「霞流さんに、何か言われませんでしたか?」
「別に、何も」
 霞流は、美鶴が入店した事は知っているはずだ。何度か目も合った。だが、店に入ってからこれまで一度も、美鶴の傍には来ていない。
 美鶴からも傍には行けない。
 近づくな。
 無言で拒絶している。鈍い美鶴にもそれくらいはわかる。
 ユンミに連れられて入店し、勧められたソファーに腰を下ろしたっきり、動くこともできずにいる。
「そんなに気になるんなら、自分から行けばいいじゃない。一曲くらい踊ってきたら?」
「そう、ですよね」
「待ってるだけじゃ、慎ちゃんは誘ってはくれないわよ」
 それはわかっている。霞流慎二は決して自ら美鶴に声を掛けたりはしないだろう。相手にするつもりもないだろうし、自ら声を掛けなくても彼は相手には困らない。美鶴が見ている限り、彼には引っ切り無しに誘いの声が掛かる。女からも、男からも。
 霞流さん、やっぱりモテるんだな。わかるよ。だってカッコイイもん。この店にいるどの人よりも格好イイ。
 霞流を振り向かせるのは容易な事ではない。それを、切なくなるくらいに思い知らされる。
 待っているだけではダメだ。
 わかっている。
 だが美鶴は、なかなか腰を浮かせる事ができない。踊った事もないのにどうすればいいのかわからないというのもあるが、先ほどの光景が脳裏に焼き付いて、恐怖となって美鶴を襲う。
 三十分ほど前だっただろうか。一人の女性が霞流に声を掛けた。細い切れた瞳で相手を見下ろし、彼は冷たく答えた。
「顔も見たくないと言っておいたはずだろう?」
 そうして次の瞬間、女性の髪の毛を片手で鷲掴みにした。そのまま引っ張り下ろす。ウィッグだった赤髪が引き剥がされる。その下からは、お団子に結い上げた無造作な黒髪。
 髪の毛を引っ張られた勢いでヨロけた女性は、そのまま床に倒れた。這い蹲るような格好で慌ててウィッグを取ろうと手を伸ばす。それを見越して、霞流はウィッグをつま先に引っ掛けてカウンターの向こうへ蹴り飛ばした。バーテンが少し驚いた顔で身を避ける。だが、落ちたウィッグを拾おうとはしない。チラリと視線を足元へ投げたっきり、澄ました顔でシェーカーを操る。
 女性がカウンターを覗き込もうと身を起こしたところに、踊っていた男性がぶつかってきた。
「っだよ、このボケッ!」
 怒鳴りながら思いっきり肩を押した。勢いで女性は背中をカウンターにぶつけ、椅子に躓いて尻餅をついた。スカートが捲くれ上がり、下着が露見する。
 派手な音に、一瞬店内が静まった。だが、次の瞬間には耳を突くような奇声。
「ダッセーっ!」







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